レオナルドダビンチの結婚や作品の謎とは?最後の晩餐をわかりやすく解説!

レオナルド・ダ・ビンチの生涯で
結婚に関する情報や
作品や代表作の「モナ・リザ」の謎について
調査してみました。

没後500年でも作品の価値が上がり続けています。
大作「最後の晩餐」も解説しています。
知っておいて損はないですよ~

わかりやすくまとめましたので
ぜひ御覧ください(・∀・)

レオナルドダビンチとは?結婚しないで独身だった?

 

レオナルド・ダ・ビンチとは
ビンチ村のレオナルドさんという意味

 

レオナルドは生涯、結婚すること無く
独身を貫き通していること自体が
大きな謎とされています。

 

精神分析学者ジークムント・フロイトが
レオナルド・ダビンチの手記を分析し
同性愛者ではないかと推測していますが
それを裏づける証拠はありません。

 

1476年有名な男娼だった
17歳のヤコポ・サルタレリに
モデルとして連絡を取ったところ
同性愛者だとして匿名で告発された
記録が残っています。

 

当時、キリスト教では同性愛は大きな罪で
命の危険もあったのでした。

 

ダビンチは貶められた噂もあり
真相は未だに謎です。

 

若かりし頃、レオナルドはかなりのイケメンだったそうで
決してモテなかったわけではないのです。

 

レオナルド・ダ・ビンチの名言によると

画家は孤独でなければならない。
なぜなら、一人なら完全に自分自身になることができるからだ。
たった一人の道連れでもいれば、半分しか自分ではなくなる。

この名言からわかるように
レオナルドは自分の意志で独身を貫き
仕事に没頭した生涯をおくりました。

 

しかし現存するレオナルドの絵画作品は
16点程度と非常に少ないです。

 

レオナルドは完全主義者で何度も
自身の作品を破棄したことや
長年にわたって何度も作品に
手を加える習慣があり
作品が残ってないのです。

 

レオナルド・ダ・ビンチの生涯を
簡単にまとめてみました。

 

レオナルド・ダ・ビンチとは?謎の生涯?

 

■ 出生

1452年4月15日 土曜日 午前3時
イタリア中部で私生児として生まれる

私生児とは婚外子
結婚してない人の子供でした。

父は公証人でヴィンチ村では裕福な名の通った家柄で
母のカテリーナは農夫の娘だったようです。

正妻に子供ができなかったので
レオナルドは5歳で父が住む
ヴィンチ村に移ります。

正規の教育は受けてなかったようですが
自然豊かな環境で感性が育まれました。

 

■ フィレンツェ時代

1466年 14歳
ヴェロッキオ (1436-1488)の工房に参加
多くの作品を共同制作しながら
美術表現のため解剖の基礎を学びます。

14歳から働き始めるのは
かなり早熟ですよね。

1472年 20歳
画家として独立

1473年 21歳
受胎告知

1478年 26歳
ブノアの聖母

独自のデッサン方法や
対象を様々の方向や距離から描く
幾何学の導入・遠近法の完成

 

■ ミラノ時代

1482年~1499年 30歳~47歳
工業国ミラノへ移住し、技術者としてアピール
自らの工房を開設
ルトビコ・スフォルツアに仕える

1483年~1486年 31歳~34歳
岩窟の聖母

1495~1498年 43歳~46歳
最後の晩餐

この時期に手工芸人から科学者へ

ヘリコプター、飛行機
潜水服、潜水艦
戦争兵器の開発を行ってます。

 

■ フィレンツェ = フランス時代

1500年~1507年 48~55歳
フィレンチェで活動

チェーザレ・ボルジアに仕え
軍事や土木事業に携わる。

1503年~1510年 51歳~58歳
モナリザ

その後はフランス国王ルイ12世の
懇願によりミラノへ
軍事地図の製作、庭園の設計

 

■ アンボワーズ時代

1516年 (64歳)
パトロン、ジュリアーノ・デ・メディチ死去
病院での死体解剖を告発され禁止される

フランス、アンボワーズへ移転
右手の麻痺が出現

1519年5月2日死去 (67歳)
「私はメディチ家により作られ、そして葬られる」
この言葉を残し、亡くなりました。

 

レオナルド・ダ・ビンチは完全主義者で
作品を仕上げるスピードが遅かったのです。

その為、依頼された仕事は未完成で
終わらないことも多かったので
土地を転々とし、様々な有力者に
仕えたのでした。

独身だから自分が興味ある研究に没頭して
気軽に動けたようにもみえますね。

 

レオナルドダビンチの作品とは?

 

受胎告知 (Annunciazione) 1472-1473年頃
98×217cm | 油彩・板 | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 

ブノワの聖母(幼児キリストに花を差し伸べる聖母)
(Madonna Benois (Madonna che porge un fiore al Bambino))
1475-78年頃
48×31cm | 油彩・板 (画布) | エルミタージュ美術館

 

東方三博士の礼拝
(Adorazione dei Magi) 1481-82年頃
246×243cm | 油彩・板 | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 

白テンを抱く貴婦人の肖像
(Ritratto di dama con ermellino) 1485-1490年
54×39cm | 油彩・板 | ツァルトリスキー美術館

 

岩窟の聖母 ルーヴル版 (Virgin of the Rocks)
1483-86年 | 199×122cm | 油彩・板 | ルーヴル美術館

 

聖アンナと聖母子 1508-1510年
(Sant’Anna, la Madonna e il Bambino con l’agnllo)
168×112cm | 油彩・板 | ルーヴル美術館(パリ)

 

洗礼者聖ヨハネ (San Giovanni Battista)1513-1516年
69×57cm | 油彩・板 | ルーヴル美術館(パリ)

 

ハポネコの妄想なんですが
レオナルドに聖母像の作品が多いのって
母親との関連があるように感じました。

 

レオナルド・ダ・ビンチは絵画だけでなく

音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学
動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学
物理学、光学、力学、土木工学など

様々な分野に顕著な業績と手稿を残しました。

 

大別すると
素描・エスキース約500枚
手稿5000ページが
イギリス、フランス、イタリア、スペインなどに
分散して収蔵されています。

 

レオナルド・ダ・ビンチの代表作のモナリザの謎とは?

 

レオナルド・ダ・ビンチによって制作され
絵画史上で最も有名な肖像画が
『モナ・リザ』です。

モナ・リザ(ジョコンダ) (Mona Lisa (La Gioconda))
1503-1505年 | 77×53cm | 油彩・板 | ルーヴル美術館

 

海外では『ジョコンダ』と呼ばれています。

 

モナリザがダビンチの代表作として
絵画の歴史においても名画といわしめるのは
スマフート(ぼかし技法)による表現です。

 

これはレオナルドによって考案された
陰影のみで対象を表現する
薄塗りの技法です。

 

何回も塗り重ねて制作するので
膨大な時間と手間がかかります。

 

最大の謎は「モデルは誰?」です。

 

  • ジュリアーノ・デ・メディチの愛人説
  • コスタンツァ・ダヴァロス説
  • 自画像説
  • イザベラデスデ説
  • 理想化された人物

などなど
依然として謎なのです。

 

現在も研究と議論が続いています。

 

近年の研究によると
赤外線と3D技術で新しい
絵の具の層が解析されて
モナリザのドレスが薄い透明の
ガーゼ布によって覆われていることが判明。

 

これはイタリアの習慣で妊婦か出産したばかりの
女性がガーゼのドレスを着ていたことから
ジョコンドの妻リーサではないか
という新しい説が唱えられています。

 

レオナルドは最晩年までモナリザを手元において
いたことが知られています。

 

レオナルド本人にとっても
重要な作品だったのでしょう。

 

 

レオナルドダビンチの最後の晩餐をわかりやすく解説!

 

 

作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
製作年 1495年 – 1498年
種類 壁画、テンペラ
寸法 420 cm × 910 cm (170 in × 360 in)
所蔵 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院、ミラノ

 

ダビンチの最後の晩餐は修道院にある壁画です。
高さ4m20cm×幅910㎝ってかなり大きいですよね。

 

仕事が遅いダビンチがこれほど大きな作品を
約3年で完成しているのです。
ちょっと奇跡ですw

 

壁画には釘を挿した跡が残っていて
糸を使い、1点透視図法で描かれたことが
わかっています。
3人ずつ描かれた人物の構図も
かなり美しい作品です。

 

最後の晩餐は有名なテーマなので
作品を比べるとわかりやすいかもしれません。
昔の宗教画は奥行きがありません。

 

現代では『奥行き』は当たり前なのですが
当時は画期的な空間表現方法だったのです。

 

テンペラ画は写真のようにリアルに
人物の表情や細部を表現できる技法ですが
壁画として保存することには向いていませんでした

 

そのためダビンチが生きている間にも
最後の晩餐は傷んでしまいました。

 

その後も最後の晩餐がある部屋は

  • 食堂として使用され湿気で傷む
  • 17世紀に出入り口で絵がカットされる
  • 馬小屋として使用され
  • 空爆で破壊される

現在まで奇跡的に残っているのです。

 

今まで多くの修復が行われ
ダビンチが直接描いた部分が
ほとんど残って無いといわれています。

 

ダビンチの最後の晩餐には
多くの謎が残っていて
様々な解釈が生まれています。

 

また様々な模倣品や、パロディ作品も

 

実際に最後の晩餐をイタリアで見るには
2ヶ月前くらいからチケットを
予約しておいたほうが良いそうです。

 

理由は最後の晩餐がある修道院は
たくさんの観光客が入るように作られて無いから。

 

一回あたり15分の観光時間で
20~25人しか入れないようですよ。

 

ダビンチの最後の晩餐は現在も
とても希少価値が高い壁画として
世界的に有名です。

 

まとめ

 

レオナルドダビンチの結婚や作品の謎とは?
最後の晩餐をわかりやすく解説してみました。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です