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ピカソの名前や本名が長い?子供や愛人や結婚と離婚の回数が多い?

ピカソの名前、本名が長いことや
子供や愛人・結婚と離婚の回数が多い
エピソードをまとめてみました

遺産相続がかなりすごいことに..

かなりマッチョなピカソさん

わかりやすく簡単にまとめましたので
ぜひご覧ください(・∀・)

ピカソの名前や本名が長い?

 

1881年10月25日
スペインのマラガに生まれたピカソ

1973年4月8日
フランスで91歳で亡くなりました

 

ピカソは生涯におよそ1万3500点の油絵と素描
10万点の版画、3万4000点の挿絵
300点の彫刻と陶器を制作しました

 

作品数でギネスブックに掲載されているアーティスト

 

ピカソの本名は聖人や縁者の名前を並べた
かなり長い名前で、出生証明書によると

 

「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santisima Trinidad Ruiz Picass」
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン
ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ
トリニダード・ルイス・ピカソ

洗礼名になるとさらに長くなります

「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno
Maria de los Remedios Crispiniano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso

パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・
ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピニアーノ
デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

 

スペイン語で『デ』や『ラ』は冠詞
『イ』は『&』なのでそれらを抜くと

ピカソには14個ぐらい名前があることになります
かなり長いですね~
本人も覚えてなかったそうです(笑)

 

画家として活動を始めたピカソは
パブロ・ルイス・ピカソと名乗り
ある時期から父方のルイスを省き
パブロ・ピカソと名乗るようになりました

 

ピカソの結婚と離婚の回数が多い?

 

ピカソは生涯に2回結婚し、
3人の女性との間に4人の子供を作りました。

1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。
1921年、息子パウロ誕生。
1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
1935年、娘マハ誕生。
1946年、フランソワーズ・ジローと共同生活。
1947年、息子クロード誕生。
1949年、娘パロマ誕生。
1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
1955年、妻のオルガが死去。
1961年、ジャクリーヌ・ロックと結婚。

ピカソの正式な離婚は1回で、
資産が半分になることを嫌い
最初の妻が死去するまで
2人目の妻とは結婚しなかったようです。

恋人と知られる相手は10人にものぼります
正式な年表にも出ない愛人がいたようです

 

  

フェルナンド・オリヴィエ

「青の時代」に出会い、「バラの時代」に向かわせたオリヴィエ。
有名になる前のピカソを知る唯一の女性で、本名はアメリー・ラン。
18歳の時に結婚した男に虐待を加えられ、パリに逃げた際に名前を変えた。
生活のためにアートモデルとして働いているうちにピカソと出会い
その後はピカソ専属のモデルになり60作品ほど制作。
画家として成功したピカソは彼女への興味を失い、1912年に破局。
前夫と正式に離婚していなかったために、財産を得ることができず
そのおよそ20年後の1930年に「ピカソと友人たち」という回顧録を出版。
すでに有名だったピカソの回顧録ということで本は売れたのですが
ピカソが弁護士を雇い出版差し止め、その後はピカソから生活援助を受けながら暮らす。

 

 

エヴァ・グエル

キュビズムの時代にピカソに出会ったエヴァ。
Ma jolie (My pretty girl) に影響を与えたと呼ばれる
彼女がピカソに会ったのは1911年。
結婚の話もしていたが、1915年に結核で亡くなる。

  

オルガ・コクローヴァ(結婚)

ピカソが36歳の時に初めて結婚したのがオルガ。この時オルガは26歳。
ピカソにとって初めての子になる息子パウロを生むが、結婚して4年で疎遠
愛人マリーの妊娠を機に南フランスに移住してピカソとは別居。
オルガはピカソとの離婚を拒み、フランスの法律による財産分与の問題もあったために
ピカソも生涯、オルガとは離婚しなかった。
オルガは1955年に自殺。息子は薬物中毒で死亡。
さらにその息子であり、ピカソの孫パヴェルリートはピカソの葬儀に訪れるが参加を拒否され
遺産のもつれにより自殺。パウロの長女、マリーナ・ピカソは
2016年2月5日にピカソ作品180点以上を出品、1230万ポンド(約20億8578万円)で売却。
遺書を残さなかった祖父のために親族が遺産のために争い
家族は惨めな人生を強いられたと語っている。

 

 

マリー・テレーズ・ワルテル(17才から密会)

1927年頃、マリーが17歳、ピカソが45歳の時に二人は出会う。
当時まだオルガと結婚していたピカソと不倫関係になり、1935年に娘マーヤを出産。
1935年にピカソに新たな愛人ドラが出てきたことを機に破局。
1977年に自宅のガレージで首を吊ってお亡くなりに。(ピカソの死亡は1973年91歳)

 

 

ドラ・マール(カメラマン・画家)

シュールレアリストの写真家として自立しており
前衛アーティストたちとの付き合いもあったドラ・マール

ピカソの母国語であるスペイン語で会話ができ、芸術や哲学
政治などについても議論ができるほどの知的な女性で

ゲルニカの制作にも立ち合い、その過程を写真に記録した。

「泣く女」のモデルにもなったが、21歳のフランソワーズ・ジロが

現れたことによりピカソと破局。精神病院に入院。

手切れ金として南フランスの館を残っていた作品ごと譲り受けるが

憎みつつも愛するピカソとの思い出のつまった作品を売りに出すことができずに困窮する。

ドラの死後、所蔵品が競売にかけられ、当時の金額で31億5000万円以上になったという。

 

 

フランソワーズ・ジロー(21歳の画学生)

1943年にパリで出会ったジローはこの時21歳、ピカソは63歳だった。
レストランでドラと一緒だったピカソに、同じく画家志望の友人と
共に声をかけられたことが出会いのきっかけ。
1946年にピカソに懇願され同棲を開始、南仏プロバンスに引っ越してから
ジローは息子クロード、娘パロマを出産。
1953年に横暴なピカソの態度に耐えきれなくなったジローは
2人の子どもを連れてパリに戻る。
2年後に画家リュック・シモンと結婚。
「LIFE with PICASSO」というピカソとの生活を綴った
暴露本も出したがピカソに訴訟を起こされる。
3審ともピカソに勝訴した。
その後は医者と再婚し、現在はカリフォルニアに在住。
現在も存命で作家活動を続けている。

 

 

ジャクリーヌ・ロック(結婚)

ピカソ最後の女性はピカソ72歳で出会ったジャクリーヌ。
ピカソが91歳で亡くなるまで一緒にいた2番目の妻で、出会った当初は26歳。
すでに結婚して子どももいたジャクリーヌは、
ピカソの最初の妻オルガが亡くなって6年後の1961年に結婚。
これまでの恋人たちの中で最も多い400点のポートレートを残しており、
首を長く伸ばして描かれているのが特徴的。
1973年にピカソが亡くなると、これまでの愛人たちや
ピカソの子どもたちとの間で財産権争いが勃発。
ジャクリーヌは葬儀出席を妨害するなどして遺産を守る。
その後、1986年に59歳でピストルでお亡くなりに。

ピカソはきっちり愛しぬいた末に
違う女性に鞍替えするという
かなり罪深き男なのです…

ドラは付き合っていた最中に
わざと若いジローにはち合わせて
嫉妬させて喧嘩するのを楽しんで眺めていたなど
プライベートはかなりクズっぽいピカソさん
人間の本性を観察していたんでしょうか

それでもドラは生活に困窮していても
ピカソの作品を手放さないで
その作品が『泣く女』なんて
なんだか泣けてしまいます

 

ピカソの子供や妻と愛人や恋人は?

 

1921年に生まれたパウロ
1935年に生まれたマハ
1947年にクロード
1949年にパロマ

この4人がピカソの子供なのですが
母親が違うことで後に大きな問題へ発展します

 

1973年に91歳でピカソが亡くなった時
その莫大な財産の相続が問題になりました

 

相続人となったのは、ピカソの最後の妻のジャクリーヌと
この4人の子どもたちでした。

 

ですが後妻と嫡出子と庶子とでは立場も違い
容易には決着がつかなかったのです。

 

その相続争いの最中、1975年
長男であるパウロは54歳で病でお亡くなりに

 

最終的にピカソの遺産は、寡婦のジャクリーヌが3割
庶子のマヤとクロードとパロマが1割ずつ
長男のパウロの子供でピカソの孫にあたる
マリーナとベルナールが2割ずつで分割されることになりました。

 

解決までには6年の歳月と3000万ドルの費用が…
かなり大変な作業だったのでしょう

 

その後はピカソの屋敷を受け継いだ寡婦のジャクリーヌは
1986年、59歳で自らの命を絶ち
ピカソの長女マヤの母親マリ=テレーズはもっと早く
ピカソの死の4年後の1977年に自らの命を絶って

 

マヤ自身は幸せな結婚をして、子どもを3人もうけました。
この3人のピカソの孫の中の1人は、ピカソの彫刻の
カタログ・レゾネの制作に携わっています。

 

カメラマンになった次男クロードは
ピカソ財団を設立してライセンスの管理

 

デザイナーになった次女パロマは
ピカソの子どもたちの中で
最もよく知られるようになりました。

 

文豪であるヘミングウェイの家族もかなり悲惨でしたが
ピカソの家族もなかなかすごい..

 

光るある芸術の影にはかなりの犠牲者がいるように感じました
作品の評価は全く別のところにあるのですが
もうちょっとみんな幸せにはなれなかったのかと
いろいろ考えさせられてしまいます。

まとめ

ピカソの名前や本名が長いことや
子供や愛人・結婚と離婚の回数が多い
エピソードをまとめてみました

かなりマッチョなピカソさん
今の時代にはあまり共感されなさそうなんですが

作品の価格は高騰中です

最後まで読んでいただきありがとうございました

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